法王の交代に関連して、フランシスコ前法王が暗殺された可能性が高いと考えており、これまでの解析でも暗殺の影を強く見せられてきました。
聖マラキの預言でも、レオ14世が最後の法王になると思われ、こうなる理由の一つがフランシスコ前法王の暗殺がウソバレすることです。これまでバチカンの最後に起きる、この暗殺については詳細の評価をしてこなかったのですが、ここまで進んで暗殺の可能性が強い以上は、必要な解析をして公表すべきでしょう。
まずは地の声になる、各地からバチカン大聖堂への組み込みです。
5月2日のアルゼンチンの地震から
バチカン大聖堂
2985000 暗殺法王 4444221、4444x10+2、+2だけれども一応五桁の強調、ぞろ目の強調
62945666 O2止め法王 230484、2305、バルーン、バブル、ガスシリンダー、x10-2、-2だけれども一応五桁の強調
62968681 O2止めPope 230400252、2305、バルーン、バブル、ガスシリンダー、x1000+2、+2だけれども一応七桁の強調
624408681 O2止めPope 697027、697、病院の練習、インターン、年間契約の、サテン、x100+2、+2だけれども一応五桁の強調
624408681 O2止めPope 132013、132、ついでに、偶発的に、料金、取り立て、料金所、犠牲、対価、代価、x100+1、一応五桁の強調
コロンビアの聖母像の涙の教会から
バチカン大聖堂
2985666 暗殺法王 3317853、33177+1、一応五桁の強調、29860の強調
2985666 暗殺法王 1885007、1885、悪漢、貧乏人、x100、六桁の強調
62945666 O2止め法王 56652、5665、プレゼント、x10+2、+2だけれども一応五桁の強調
62945666 O2止め法王 63102、631、十分、満タン、疲れさせる、x100+2、+2だけれども一応五桁の強調
62945666 O2止め法王 777019、777x100+1、一応五桁の強調、幸運の強調
レオ14世ゆかりのチクラヨ大聖堂から
バチカン大聖堂
2985000 暗殺法王 3919989、39、離婚、スパーク(閃光、ひらめき)、20、彼と、満足するまで飲む、x100-2、-2だけれども一応六桁の強調
2988681 暗殺Pope 3580175、358、うなりごえ、x100+1、一応五桁の強調
2988681 暗殺Pope 3915161、3915、とかげ、x10+1、一応五桁の強調
2988081 暗殺Pope 1409901、141、倫理的、母、それは知られている、x100-1、一応五桁の強調
2988081 暗殺Pope 2224839、2225、プール、小池、x10-2、-2だけれども一応五桁の強調
62945666 O2止め法王 169988、17、then so、x1000-2、-2だけれども一応五桁の強調
62945000 O2止め法王 769402、7695、つまらないもの、少量、-1x10、一応五桁の強調
聖マラキの預言のアーマーの教会から
バチカン大聖堂
2988681 暗殺Pope 259981、26、彼と、満足するまで飲む、x1000-2、-2だけれども一応五桁の強調
62945666 O2止め法王 12344、12345-1、一応五桁の強調、カウントアップの強調
62968681 O2止めPope 31333、313はヤハウエx2、33は流刑地に入る、五桁の強調
62968681 O2止めPope 123395、1234x10-1、一応五桁の強調、カウントアップの強調
624408681 O2止めPope 315979、315は最後、97はミスをする、エラー、五桁の強調
624408681 O2止めPope 345607、3456x10、五桁の強調、歳差運動の強調
暗殺については善の側の重要な場所からの組み込みで一通り確認出来るのでした。続きの解説の前に関連ニュースです。
ローマ教皇、退院へ 肺炎で1カ月以上入院
2025.03.23 Sun posted at 12:07 JST
(CNN) 肺炎で1カ月以上入院していたフランシスコ教皇(88)が、23日に退院する見通しとなった。入院先の担当チームを率いる医師が22日の記者会見で発表した。
同医師が病院での会見で語ったところによると、教皇の容体は安定している。退院後も薬物治療を一部継続し、少なくとも2カ月の静養期間を設けることとする。
ローマ教皇庁(バチカン)の報道官によると、教皇は23日、バチカン敷地内の居宅「サンタマルタ館」に向かう前に、病院のバルコニーで公に姿を見せる。
バチカン広報室によれば、教皇は祈りの最後に信者らを祝福し、あいさつする予定。教皇は毎週日曜日にこの祈りを唱えるのが恒例になっているが、ここ5週間は休んでいた。
教皇は先月14日から入院していた。バチカン当局者によれば、両肺の肺炎からは回復したものの、一部の感染症はまだ完治していない。発声も改善しているが、回復には時間がかかる見通しで、退院後も治療と理学療法を続けるという。
バチカン市のサンピエトロ広場には教皇の入院後、信者らが集まって回復を祈ってきた。22日夜に集まった人々からは安堵(あんど)の声が上がった。
南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスからの映像にも、22日に市内の教会前で祈りをささげ、退院の知らせに喜ぶ信者らの姿が映っていた。
教皇の入院は、2013年の教皇選挙以降で最も長期に及んだ。バチカンと担当チームによれば、入院中に2回、命にかかわる重篤な状態に陥っていた。
一方で教皇は先週、カトリック教会での女性の役割拡大を含む3年間の改革計画を承認し、任務続行に強い意欲を示していた。
教皇フランシスコの死因、脳卒中と心不全
教皇フランシスコの死因は、脳卒中と心不全であると報告された。
教皇フランシスコの死因は、脳卒中と心不全であることが、バチカン市国保健衛生局長、アンドレア・アルカンジェリ教授による「死亡通告書」(4月21日付)により明らかにされた。
これによれば、教皇フランシスコは、4月21日午前7時35分、バチカン市国のサンタ・マルタ館内の住居で亡くなった。
教皇は、両側性多菌性肺炎における急性呼吸不全の既往症、多発性気管支拡張症、動脈性高血圧、2型糖尿病を患っていた。
21日午後、サンタ・マルタ館の1階にある礼拝堂で、教皇の死を確認し、ご遺体を棺に移す儀式が行われた。
その中で、ローマ教皇庁のカメルレンゴ、ケビン・ジョゼフ・ファレル枢機卿が教皇の死亡確認を読み上げた。
儀式は、1時間近くで終了した。
退院後2ヶ月は療養とのことでしたので、理学療法としての酸素吸入が続くのかと考えていました。酸素のチューブを付けた法王様の画像にも記憶がある所です。
公表された死因ですが、脳卒中と心不全でした。血管に問題がある場合の死因であり、酸素吸入が必要な状況下でこうなる物か、少し疑問に感じたのでした。さすがに老衰との区別も含めて情報が足りないので、評価も難しいのでした。窒息なら普通に自然死に見えるところかと思えます。
こちらとしては、調子が悪くなると酸素吸入が必要になる状況だったと思えるのでした。これだと酸素吸入の機械をいじるだけで酸素の供給を減らせるので、死因がここから生み出せたでしょう。
この確認がここでは取れるのですが、この後の暗号評価も含めて、酸素吸入を阻害するのは数ある暗殺手段の一つであるとしておきます。あとから他の死因が公表される事もあり得るのであり、改めて解析のやり直しでしょう。そこまで進んでデーターの正しさを確認出来るでしょう。酸素吸入への干渉は、暗殺手段の一つとして、始まりから検討されているのでデーターが存在していると、現時点では考えて下さい。
ペトロ神父を推していたフリーメーソンとしては、酸素吸入だよりだとするなら、法王様を簡単に殺せるので、ここで悪魔の願う法王に交代したかったのでしょう。これが上手く進まなくて今の姿でしょう。暗殺が行われていてもこれを告発する手段などないに等しいでしょうから、バチカン内部の悪魔達のやりたい放題だとここでは考えています。
続きは暗号解析で、ファティマの第三の預言に何が出てくるのかを調べています。結果はイラスト参照下さい。
853+112と266 87個
853ニュース 46個 1.0
レオ14世コンクラーベ 15個 0.45 参考
1番目に3メッセージ、3番目に267ヤハ(ウエ)、4番目に宗教悪、5番目に悪追放、6番目に112ペトロ、9番目にO2細工、11番目にO2止める、16番目に法王殺
853はファティマの第三の預言
112は聖マラキの予言における112番目がフランシスコ前法王
266は第266代法王がフランシスコ法王
853298 14個
1番目に霊の役目、2番目にthe告発、3番目にペトロ詫び、5番目に酸素止め、6番目に法王殺、7番目に殺指弾、14番目に112殺、5番目にP暗殺
298は暗殺の意味のヘブライ数値です
853JMB 411個
853ニュース 178個 1.0
レオ14世コンクラーベ 89個 0.45
1番目にO2細工、2番目に112殺、3番目に使徒ペトロ、4番目にR人ペトロ、5番目にペトロの嘘、7番目に悪追放、8番目にthe摘発、9番目に法王殺、11番目にO2止める、15番目に14改革
JMBはフランシスコ前法王の本名です
RPrevost 452個
1955914誕生日 391個
コンクラーベ 198個 0.28 参考
853ニュース 65個 1.0
1番目に法王殺、2番目にペトロヤハ(ウエ)、3番目に112殺、4番目にO2止める、5番目に112ペトロ、6番目にO2細工、7番目に使徒ペトロ、8番目にバチカンの終わり、13番目にペトロ詫び、15番目にP暗殺、16番目にthe摘発、19番目に14追放
Leo267 450個
1955914誕生日 382個
コンクラーベ 197個 0.28 参考
853ニュース 59個 1.0
1番目にパウロ捏造、4番目に秘密隠し、5番目にthe告発、6番目に113ヤハ(ウエ)、9番目に14指弾、10番目に14浄化、11番目に112殺、15番目に悪追放、17番目に14追放、18番目に使徒ペトロ、23番目にO2細工
ジェド柱霊界ラジオからは、霊達の監視結果が詳細に出せるでしょうから、どうやって暗殺したのかはすぐに分かるでしょう。その後の証拠も含めた司法の動きが、バチカン市国では難しいと思えるのでした。犯罪者を裁く仕組みが整っているとは思えないのであり、教会は悪い事をしないから、法制度もゆるゆるだと思えるのでした。悪魔達には好都合なだけだと思います。
どんな暗殺手段かはまだ分からないのですが、酸素吸入器に細工をするのはやりやすい暗殺手段なので、始まりか高い順位で組み込みがあるのでしょう。釣り餌としてこちらが食いつくには十分なので、この姿でしょう。昔から毒殺でも何でもありが、法王の暗殺でした。今回がどうなっていたかは、ジェド柱霊界ラジオが教えてくれるでしょう。
まずはここまでを公表です。続きはジェド柱霊界ラジオの公表情報に合わせて、追加の解析でしょう。バチカン・カトリック内部の悪魔達が訴追されて、罪を償う事を願っています。
これで明日5月12日にやっと機械の完成に進めるでしょう。頑張るところです。
5月12日の追記
バチカン・カトリックの悪魔達の姿を見せている、ヨハネ・パウロ1世について、wikiの記事を転載しておきます。悪事をやりたい放題である部分が理解出来るでしょう。
ヨハネ・パウロ1世(ラテン語: Ioannes Paulus I, イタリア語: Giovanni Paolo I, 1912年10月17日 - 1978年9月28日)は、ローマ教皇(在位: 1978年8月26日 - 1978年9月28日)、カトリック教会の教皇。教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用した。宗教事業協会(バチカン銀行)の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。
中略
「ヨハネ・パウロ1世」
教皇就任後にバチカンのバルコニーから演説するヨハネ・パウロ1世(1978年)
1978年8月6日、パウロ6世の帰天を受けて行われたコンクラーヴェにおいて、「本命」と目されていたジュゼッペ・シーリ枢機卿やブラジル出身のアロイージ・ロシャイデル枢機卿を退け、1日目の3回の投票でアルビーノ・ルチャーニ枢機卿が新教皇に選ばれた。
教皇名は「ヨハネ・パウロ」となり、複合名を初めて採用した教皇となった(これはヨハネ23世とパウロ6世前教皇の改革路線を継承するという意志の表れともいわれる)。通常、初めての名前には2世が現れるまで「1世」とつけないのが通例であったが、8月26日の就任当初から「ヨハネ・パウロ1世」を自ら名乗った。これには「ヨハネとパウロという教皇名を組み合わせた初めての例だから」「(バチカンの)刷新の思いを込めた」などの説がある[1]。
改革
ヨハネ・パウロ1世は、様々な意味で型破りな教皇であった。複合名を初めて採用したことを皮切りに、虚飾的な事柄に対して非常に改革的に臨み、たとえば教皇演説の中で、それまでの教皇が伝統的に自らを「朕(noi)」と呼んでいたのを「私(io)」に変えたほか、豪華な教皇戴冠式や教皇冠も拒否した。教皇用の輿の使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるをえなかった。
さらに、難解な宗教用語やラテン語を多用していた表現を、ジュール・ヴェルヌや『ピノキオ』などを引用した、一般人にも理解しやすい平坦な表現へと改めた。こうした試みは「キリスト教の威厳を損なう」などとして保守派からは反感を買うこととなった。
また、中南米やアフリカ諸国の聖職者をバチカンの要職につけたほか、中南米やアフリカ諸国の貧困や独裁体制下で苦悩する民衆への同情を示し、アルゼンチンで行われていた「汚い戦争」を進めていたホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領(上記の「ロッジP2」は反共産主義であるがゆえに同大統領を支援していた)がバチカンで行われた戴冠式に訪れた際には、直接的な表現でアルゼンチンの現状を非難した。
9月23日に、ローマ司教の職権によりサン・ピエトロ大聖堂を受け継いだ。当時イタリアで大きな支持を受けていた(反対に、当時の東西冷戦下でイタリアの保守派やアメリカなどからは強い反発を受けていた)ローマの共産党の市長と握手を交わし、ミサの後「教会の真の宝である貧しい人々のためには尽力するが、悪人に対しては教皇の教権を憚ることなく行使する」と宣言した。
避妊の解放
ヨハネ・パウロ1世は、避妊についての禁令を解くつもりでもあった。アメリカのいくつかのプロテスタント教会とは既に接触を持っていた。教皇に選出される直前、アメリカ議会代表団を歓迎し、避妊について女性の排卵期について語った後、「どうして妊娠しない期間を、24日から28日にすると罪になるのか、私には理解できません」と述べた。そして、パウロ6世による旧来の産児制限反対を再確認する回勅『人間の生命について〔フマナエ・ウィタエ〕』は誤りであったと口にしていた。
「神からの贈り物である子供が出来ないようにする行為は罪である」とするそれまでの主流派に反して、「本当に子供を望んでいる女性のみが妊娠すべきである」との避妊擁護の考えを持っていた[2]。
バチカン銀行の改革
ヨハネ・パウロ1世は就任後間もなく、かねてから汚職が噂されていたバチカン銀行の不透明な財政についての改革を表明した。実際に、マフィアとの癒着が噂されていたマルチンクス総裁の更迭を決めていた。
同氏はかつてカトーリカ・デル・ベーネト銀行の売却で暗闘し、その後も「ロッジP2」のリーチオ・ジェッリ代表を含むメンバーや、マフィアなどと深い関係を持ち汚職を続けていただけでなく、偽造公債の発注が、生まれ故郷のアメリカのFBIの捜査対象になるなど、その言動が国際的にも問題視されていた。
マルチンクス総裁以外にも、ジャン=マリー・ヴィヨ国務長官をはじめとしたバチカン銀行の汚職に関係する、複数のバチカン内部の関係者の更迭を死去直前に決定し、その更迭者リストの内容をめぐってバチカンとイタリア国内で様々な噂が流れていた。
急逝
教皇在位33日
上記のような改革を早くから表明したことは、多くのバチカン内の改革派と信者からの支持と喝采を受けた。一方で、追放の対象者となった「保守派」やその利害関係者からは大きな抵抗と非難を受けていた。
そして、ヨハネ・パウロ1世は、教皇在位わずか33日目の1978年9月28日、午前4時45分にバチカン内の自室で遺体となって発見された。わずか33日の教皇在位は、20世紀に入ってから、そして2025年現在も最短の在位記録となった。
証拠隠滅
午前4時という、通常通りの起床時間になっても起きてこないことを不審に思った修道女によって発見された直後、個人秘書であるマギー神父に連絡が行き、午前5時にはヴィヨ国務長官に連絡が行った。しかし、ヴィヨはすぐに専属医師団を呼ばず、自らの側近に連絡した後にようやく医師団次席のレナート・ブゾネッティ医師に連絡を行った。
その後、午前6時過ぎに駆けつけたブゾネッティ医師による検死が行われたものの、遺体解剖が行われていないにもかかわらず、ブゾネッティは「帰天推定時刻は27日の午後11時ころで、死因は急性心筋梗塞である」と断定し、午前7時27分にバチカン放送による帰天の発表がされた際には、この検死内容がそのまま発表された。この際に、なぜか(聖職者の私室に修道女ではあっても女性が入ってはいけないという理由で)「遺体の発見者が個人秘書のマギー神父である」と偽って発表され、さらに遺体発見時刻も「午前5時30分」と偽って発表された。
帰天後、ヨハネ・パウロ1世の遺体発見時にベッド周辺に置かれていた眼鏡とスリッパ、就寝前に手元にあったヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教などのバチカン銀行関係者の更迭を含むバチカンの人事異動者リスト、そして通常は常時用意されている遺言状が、前日ヨハネ・パウロ1世より更迭が言い渡されたヴィヨ国務長官によって持ち去られており、その後紛失した。
ヨハネ・パウロ1世の遺体が発見されてから15分と経たず、医師団への連絡も行われていない午前5時前には、早くもバチカン御用達の葬儀社であるシニョラッティ社に連絡が行った上に、遺体解剖も行われず、明確な死因もわからないうちから防腐処理が行われたことなど、バチカンによる「証拠隠滅」や「情報操作」と思われる行為が矢継ぎ早に行われた。
また、この「バチカン保守派」による迅速な対応が信者やイタリア政界関係者、マスコミだけでなく、バチカン内部関係者からも大きな疑惑を呼んだ。イタリアの有力紙である『コリエーレ・デラ・セラ』は、遺体解剖がすぐに行われなかったことを10月1日の紙面で大々的に批判した。なお、遺体解剖は防腐処理の終了後に秘密裏に行われた。
謀殺「説」
このように、帰天間もなく不可解な証拠隠滅や情報操作が行われた上に、ヨハネ・パウロ1世によるバチカン銀行の改革と自らの追放を恐れていたマルチンクス大司教が、普段は早朝に起床することがないにもかかわらず、なぜか当日午前6時45分に教皇の寝室近辺にいたこともあり、まもなくヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教、そしてマルチンクス大司教と関係の深かった「ロッジP2」のジェッリ代表、さらにこの2人と関係の深いアンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取らによる謀殺説がバチカン内部から囁かれることになった。
しかし、バチカンにこれらの「疑い」を捜査するための権限を持つ警察(警備を行うバチカンのスイス衛兵のみ)や公訴の提起を行う検察は存在せず、それは統治権を持たない隣国のイタリアも同様であった。しかし、世界各国の新聞やテレビなどのマスコミュニケーションやジャーナリストによる犯人捜しは今日に至るまで続いている。
その中で、上記の人物と近い関係にあったマフィアによる暗殺説もあり、マフィアとバチカン、イタリア政界の関係を扱った1990年公開のアメリカ映画『ゴッドファーザー PART III』のプロットの一部は、この教皇の謀殺説をもとにしている。また、2006年に発表され、世界的ベストセラーとなったポルトガル人作家ルイス・ミゲル・ローシャ(英語版)によるミステリ小説『P2』(新潮社刊・原題 O Ultimo Papa )は、この教皇謀殺と秘密結社「ロッジP2」との関連をテーマにしたものである。
葬儀
帰天したヨハネ・パウロ1世の葬儀ミサは、同年10月4日の朝からバチカンで多くの信者の中で執り行われた。
「微笑みの教皇」といわれ、飾らない態度と柔和と謙遜、率直な姿勢が人々の信頼と期待を生み、さらにバチカン銀行の汚職に関係する複数のバチカン内部の関係者の更迭を死去直前に決定するなど、当時からその体質が多くの批判を浴びていたバチカン銀行の改革を表明していたこともあり、多くの信者からその帰天を悲しむ声が聞かれた。
ヨハネ・パウロ1世に罷免される予定であったヴィヨ国務長官は1979年3月に死去するまで、マルチンクス総裁に至っては1983年に「アンブロシアーノ銀行の破綻の責任者」としてイタリア検察から逮捕状が出たにもかかわらず、冷戦終結直前の1989年までその地位にとどまっていた。
転載ここまで
当時はバチカン銀行に改革のメスを入れようとしたことで、暗殺を招いていると言えるでしょう。この件も含めて、ジェド柱霊界ラジオの情報公開が起こされるでしょうから、バチカン・カトリックの悪魔な姿を、世界に明確にする事になるでしょう。
稲生雅之
イオン・アルゲイン