藤原京の教える日本の古代史2/2 12月17日追記

法隆寺とキトラ古墳

 法隆寺は世界最古の木造建造物であり由緒あるお寺です。聖徳太子の後の時代に火災にあって再建されたことが日本書紀などに残されている歴史ですが、その始まりは明確にされていません。聖徳太子にまつわる不思議な場所にされていますが、遺跡の観点から見ると明らかに先史文明の情報を残されている場所になります。

 聖徳太子の住んでいたと言われる太子殿は、正確にギザへの角度に合わされ、距離は11360mです。もちろんこの隣に暦の距離11359mの建物が存在し、311倍の1年の長さです。月の周期29.5305を385倍すると11369.24m位ですので、この距離の存在も近い将来調べられる事になると思います。
 位置関係を見ておくと、太子殿から160度の方向(北から20度で、前記事の暦の角度と富士山の角度である70度に+90度です。)に高松塚古墳の東側が相当し、高松塚古墳の頂点部は計測中心から11360mです。角度は0.01度の精度です。
 同様に南大門から延びる松並木の先頭部分からキトラ古墳の西側が160度の方向です。計測中心からは12550mという切りの良い数字でした。この半分が6300年前に近いことも距離の理由だと思います。キトラの西側は法隆寺の西側に対応し、高松塚古墳の東側は法隆寺の東側に対応する事を表し、法隆寺との関係を明確にしている様です。

 法隆寺には±20度で暦の時期を伝える役割が与えられていた様子で、上御堂から70度が崇道天皇陵、110度の位置に池と近くに十二社神社となっています。富士山火口は円照寺、三宅島火口は元の三島神社、今は天理教の本部になり非常に残念ながら正確な位置が失われています。
 計測中心からの距離が2つ特徴を持って決められています。松並木の先頭部分が11338.9m、東院への入り口が11334.9mとされており、イナンナ定数22.68kmの半分11340mより少し小さな値が選ばれています。
 当初日本にも2の12乗根側の影響が強く及んだのかと思いましたが、2カ所で少し短い距離が確認出来ました。これらは彼らに負けない事を表すのですが、いざという時には2の12乗側のふりをする仕組みでもあったでしょう。多くの人々の命に関わることであり、こういった仕組みが国を守った岡山での戦の後に加えられたのかも知れません。

 松並木を先に延ばすと16.3kmの距離に空き地があり、その場所は計測中心から216度イシス距離の聖なる場所です。空き地である事は建物が焼失したのか、もしくは涙をのんで壊したのかだと思います。
 藤原京では432が聖なる数字として使われており、神武天皇陵が216度、8640mが陵の内部になる様にされています。126.60度の山頂には4320mが使われており、歳差運動の数値への配慮が伺えます。
 22.68kmと8.64kmは2の12乗根側の使うイナンナ定数の距離ですが、4320はギザのピラミッドに組み込まれた数字なので、光速度側でも使われるでしょう。
 どちらとも取れるこの種の数字の使用には、当時の人々の戦後の苦悩が伺えるのです。

 こうして見てくると、法隆寺は完全に先史文明の位置決めの行われた地になります。はたして聖徳太子が、一人でここまでの事を出来たか疑問に感じます。仏教に対する姿勢と十七条憲法など太子が素晴らしかった事は事実だと思いますが、どの時点まで先史文明の情報が受け継がれていたのか、よく分からない状況です。藤原京だけでなく日本を守ろうとした仕組みがここに現れており、岡山の戦後の影響が色濃く感じられるのです。
 韓国の南西部には前方後円墳が残されており、一つを調べてみたところ70番目の先史文明の遺跡でした。咸平長鼓山古墳の計測中心からは富士山の裾野が出雲大社に重なり火口は85度丁度、三宅島は伊勢神宮と橿原神宮に挟まれています。吉野ヶ里へは31xイシス定数距離でした。明らかに日本との強い関係を表しています。日本書紀に出てくる応神天皇の時代の日本への帰化人の出身は、この様な場所かも知れません。

 当時は情勢の明確な変化もあり、白村江の敗戦により日本と韓国とのつながりが消えてしまっています。それまでは日本とのつながりが残されており、かの地の光速度側の人々とのつながりが生きていたと思われます。この敗戦により日本が内向きになり、国内固めに進むことになっていったでしょう。神話からもそのつながり情報は消されているかも知れないと思える大きな情勢の変化です。
 この時期に日本書紀や古事記が残されて、国内固めの一環になっていると思います。ここまでの歴史をみると、神話は日本の権力者の権威を支える物であり、その証拠が大きな古墳群の存在にあると思います。自分達の権威をその大きさ、偉大さになぞらえるのです。
 すると、古墳の数しか偉大な人を残せないという限界も生まれてきます。その為に日本書紀や古事記の天皇の人数が制限を受けたのでしょう。口述の時代は簡単に修正出来る物ですが、文字になって記録に残るとそれまでの様には修正出来なくなるのです。

 伴星の本にホツマツタエを紹介しました。12代天皇まで書かれており、日本書紀の41代より短くなっています。ヲシテと呼ばれる日本の文字でかかれており、書かれた時代が漢字の時代よりも古い縄文時代まで遡れる可能性を残しています。ギザもヒエログリフがありながら文字を使わずに高度な文明の情報を残しており、バビロンも同じです。日本にもこの様な文字が存在し、一般には隠されて使われていたとしても不思議はないのです。
 今後の研究が重要になると思います。今日まで残された理由があると思いますし、日本書紀とも古事記とも異なる部分を持ち、後の時代の人々の都合による創作をうかがわせるのです。しばらく先になると思いますが、改めて高度な遺跡の情報が反映されていないかを調べてみたいと思います。60進法の暦の存在など先史文明の技術なのかを知りたいと思います。

 12月17日にホツマ辞典が届き、重要な部分に目を通しました。1年を8等分する月名が存在し、その区分が立春~冬、春分、秋分、夏至、当時に相当する事が判明しました。70度と110度、東西の線があると、この区分が一般の人々にも使える事が明らかです。夏至と冬至は太陽の最も高い位置と低い位置ですが、残りは日の出の方向で表されます。この関連は古墳時代から利用されていた区分であり、日本書紀や古事記にどの様に表現されているか、単なる興味を越えて調べる必要が起きました。現状ホツマツタエ独自だと思っていますが、詳細はきちんと調べてから公表します。

 歴史は延々と続きますが、日本書紀を見ても歴史書が燃やされた記録があるのであり、同じ事が繰り返されてきた可能性は否定出来ないでしょう。6300年以上の昔から多くの古墳は存在し、その当時の人々が古墳に葬られていると思えるのです。結果として当時の古墳を造った時代の人々が神話にして残されて、延々とその続きの部分に直近の人の祖先を組み合わせて利用してきた構図が伺えるのです。
 天皇は神ではありませんが、こういった流れの原点にいた人々の末裔である事を否定しません。神話としてみる始まりの部分には多くの真実が名前として残されていると思いますし、途中の人々の事が残されていない事を残念に思います。古墳を調べて日本の過去を知るべき時なのでしょう。特に出雲大社と朝鮮半島、奈良との関係は古い時代の物であり伊勢神宮も橿原神宮も含めて、6300年前の始まりの時代に造られたと考える方が現実的です。高度な文明を持った当時の人々が、今の日本の原型を造り出しているのです。

 藤原京の最後はキトラ古墳の天文図です。高松塚とこの地のC14による年代測定が見てみたかったのですが、ネット上では検索出来ませんでした。状況的にはこの2つ共が6300年前の古い時代の物だと思われますが、明確なことは分かりません。
 天文図には他の星よりも大きく書かれている4つの星があり、情報を区別して伝えようとしています。約3万年前の奈良の夜空を描いた物と思われます。こちらの判断根拠は簡単ですが、説明はイラストを見ないと分かりにくいと思います。研究者はこの天文図の時期をAD300年頃にすべきという先入観に囚われすぎています。デンデラの天文図同様にその古さがまだ理解されていないのです。

1)ずれている黄道図とされる円には大きな特徴があり、オリオン座の左肩ベラトリクスが三つ星から遠くなる位置にずらして描かれている事です。赤道がこの絵のようにベラトリクスと右肩ペテルギウスの間に入るのは、29834年の歳差運動周期の中でも約300年しか続かない1%の短い時期です。この時期を明確にするためにベラトリクスは本来の位置よりずらして描かれています。ずれが意図を明確に表しているのです。このレベルの絵を描く人がオリオン座を見た事のない理由がなく、この変形は意図した以外にあり得ないでしょう。隣にある高松塚古墳のオリオン座の天体図との比較でも明確な客観的事実です。天文図を残した人は歳差運動によるこの現象の発生を知っている事も明らかです。

2)明るい星を選ぶ時、一番はシリウス(天狼)、二番はカノープス(老人)、三番はαケンタウリ(ここでは北落師門)です。この天文図は歳差運動に応じて動く水平線により、端に書かれた星々が見え隠れする事も表しています。計測場所は奈良です。カノープスは書かれた赤道の一方では見えなくなります。
 北落師門とされる星をαケンタウリにすると、この天文図の時期は歳差運動周期を25788年にする天文ソフトでBC25300年(1.25度)とBC20100年(高度0.44度)になります。AD600年では2.8度あり明らかに見えるようになり、相当する未来のAD5800年には固有運動もあって見えない位置です。
 もう一つの大きく描かれている星は明るさ十番目の星エリダヌス座アルケナルと思われ、奈良からはアルケナルも歳差運動により見えたり見えなかったりする星となります。
 この星は60度もずれて書かれています。αケンタウリを北落師門とされる位置とした場合BC25300年前とすれば、移動方向も角度のずれ量も約60度となりほぼ一致します。この一致は意図したずれである事を伝える為でしょう。ずれの一方は固有運動における移動方向をも表しており、固有運動を知るデンデラの星の書き方に似ています。
 天文図の書き手は観測なら6千年も必要なこの種の事実を知っていた事になります。推定の一方は未来なので、可能性は高度な先史文明か3万年前の情報になると思います。

3)星座の形が3万年前の形である。これはデンデラのオリオン座と雄鶏座の関係と同じです。軍市は中国では野鶏とされる事があり、雄鶏と同じ星座と思われます。シリウスの到着前のおおいぬ座です。シリウスとされるキトラの天狼の位置もオリオン座の三つ星と同じ高さであり、デンデラのハヤブサで表すシリウスと同じ位置になります。

 こうしてみると描かれている絵柄は3万年前を表し、一方の赤道の時期です。もう一方はオリオン座のペテルギウスとベラトリクスの間を通る時期でありそこから約6000年ほどの未来です。歳差運動周期の20%ほど時間が過ぎた時期です。
 伴星近日点には赤道はオリオンの三つ星の左側のミンタカにほぼ重なります。この絵柄を使わなかったことには理由があるでしょう。20%で表す事に対するこだわりでなく、オリオン座にこの赤道が通る時期でAD4300年くらいを表せるのです。地殻変動の4160年を意識した物と思われます。

 キトラ古墳と高松塚古墳の造られた時期は6300年前の時代の可能性もありますが、AD600年でもおかしくないという状況です。C14の鑑定をすれば結果の出ることであり、どちらになるのかその結果を待ちたいと思います。書かれている天文図は3万年前の奈良の夜空で、6000年分の歳差運動を赤道の動きとして含んだ物になります。また、月影として月のうさぎも描かれており、岡山のモニュメントにつながっていました。
 藤原京も先史文明の遺跡である事が明らかです。ここには日本のルーツが明らかになる情報がたくさん残されていました。重要な部分をまとめとして再掲すると、

1)日本にはギザのピラミッドに対応する11360年前の古い時代から、先史文明が大阪と奈良に存在した可能性が高い。奈良と大阪の遺跡群では6300年前が強調されており、この前後の時期が古墳時代の始まりと思われる。文明は当時から日本に存在し、中国から来た物だけではない。ハドソン湾極時代に東アジアに文明圏が存在したと思われる。
2)土器の証拠の残る金山巨石群の岩屋岩陰遺跡の時期である約7000年前に、奈良の箸墓古墳と同様でより高度な暦の計測の仕組みが存在していた。1年365.2424日で現代でも通用するレベルである。
3)奈良と大阪の都市は70度と110度の直線で表す日の出の方向の暦を利用している。遺跡や神社や寺院を利用した直線が、立春~冬、春分、秋分と合わせて利用されていた。
4)日本の先史文明の大規模古墳を用いた遺跡には、角度と距離の高度な計測が行われていた。遺跡の示す4160年に予想される地殻変動に影響する富士山火口、三宅島火口を示す中に、見えない位置を指し示す高度な技術を表して残している。
5)伊勢神宮も出雲大社も橿原神宮も先史文明の流れを明確に汲んでいる。富士山と三宅島の火口を伝えるだけでなく、韓半島との関係を明確にしている。初代の神武天皇陵は隣接する橿原神宮と一緒に富士山と4160年を最も重要な情報の一つとして伝えている。初代以降の天皇は代々神官の役割を持ち、自然と神々を敬って来たと思われる。
6)キトラ古墳の天文図は、エジプトのデンデラの天文図同様に3万年前の星座と、奈良における6千年分の歳差運動による赤道の変化と星の見え方を表している。
7)藤原京には遺跡の区や尋という土地寸法の単位をメートルに変換する手法が残されており、高度な科学は一般市民に隠されていた。当時から法隆寺が重要な拠点であり、ここにいた人々が現在へ歴史をつないでいる。聖徳太子はその継承者の一人だったと思われる。

 法隆寺には、伏蔵(地中に埋め隠された財宝)が3箇所あるとされており、この中身を調べる時かもしれません。空でも外れでも日本の歴史を明らかにするでしょう。

稲生雅之
イオン・アルゲイン
Rev1 ホツマツタエの説明を追加
Rev2 ホツマの資料が届き、1年を8等分する月の区分の存在が判明。70度と110度の区分がこの区分に使われていたと思われる。