先史文明の遺物だったホツマツタエ 6月23日

 ここしばらく過去の2つの争いがどの様な物であったかを、神という概念を通して考えさせられていました。その結果でホツマツタエを見直すことになり、手元に準備してあった訳本を読むことになりました。準備だけ出来ていてなかなかこの作業に着手出来なかったのですが、情報公開の立ち上がりの前には読んでおくべきであろうという思いもあって進める事にした物です。
 今読んでいる本は以下の本です。

はじめてのホツマツタエ 今村聰夫著
天の巻、地の巻、人の巻 全三巻

 原文にも確認作業をしています。参考にしている原文は最後に紹介します。
 この本を読む前にもホツマツタエの参考書など読んでいました。原文はどうしても意味が分かりづらい部分があるので現代語訳の本には助けられています。
 まだ作業の途中で残りに人の巻を残している状況ですが、書かれている内容の解釈については大きな進歩がありました。ハドソン湾極時代の1年の長さである360日と当時の暦の数値であるイナンナ定数が暗に含まれている部分が確認出来ました。

 ホツマツタエはまだ研究が緒についたばかりであり、日本語の研究者には偽書扱いされている部分が大きいでしょう。原典の古い物でも江戸時代だったと思います。写本を残し続けてこの状況です。加えて12代までの天皇の記述なので、古い部分に遺跡の証拠、物証がほとんど見られずこの部分が不利な状況でした。
 本には39個の銅鐸が出雲で出土し、現在は国宝になっているのみならず、5点ほどホツマツタエの記述との一致が見られるとのことです。文字があれば分かりやすいのでしょうがまだその物証には届いていない様子でした。
 今回こちらの見つけた物は、日本の遺跡にも確認が取れています。有名どころには一通り含まれていそうに感じます。今回は月のうさぎと神功皇后陵をイラストに紹介します。この二カ所では29952や29834,29979との組み合わせでの強調を伴う組み込みです。875と864が意図した重要な数値である事を明確にしているのでした。
 ホツマツタエに組み込まれた数値864は遺跡で既に確認している数値です。4320x6=25920が一般的な使われ方であり、歳差運動の最速値の象徴値です。
 875は訳本の中ではこの様に説明されていました。

スス暦では、太陰暦と太陽暦との間で875日目に端数が1となる。(理論的裏付け不明)

 スス暦とはホツマツタエに使われている60進法の暦の一種です。訳本にもその解釈による西暦への変換が試みられていますが、ここにも物証がなく苦労されている所だと思われます。
 875と言う数値は日本書紀と古事記では抜き去られている部分に書かれています。まずはその前段に1年が360日であることを記述している部分から抜粋します。初めてのホツマツタエ地の巻、ホツマツタエ御機の二十一、ニハリ宮法定むアヤより

瑞垣全周に運勢表を P96
 瑞垣の全周である四辺を1年と考えると、各辺は四季に分けられます。その一辺を約90日に割り振り、その各辺に九門を設けると(板塀の板か?)その門一つは10日間に割り振られます。

 訳本にはこの後、九門x4辺=36の運勢表の説明が出てきます。当然ですが10日x36=360日で一年になるでしょう。
 この章にはまだ続きがあって、ここでも1年360日です。

根上 木は逆しらに カシラ下 P102
 ニハリの宮の南正面に建てられた羅生門は、柱が直径三十寸、間口三丈、高さ三丈もあります。桁上六咫に高さが一年の日数と同じ三百六十寸の部屋を設け、柱の太さは一月の日数と同じ三十寸としました。

 この部分には一月30日で一年360日が明確に現れています。世界の歴史を調べると古い暦には一年360日の物があるとのことです。ここにも同じように一年360日の暦が残されているのでした。
 ホツマツタエには一年365日という部分も明確に出てきます。ホツマツタエの中では一年360日と365日が混在しており、恐らく意図的に残されている物でしょう。
 続いて875の部分です。

ウツロヰの大将君 ウツロ守 東北のひと木お 居社にせよ P107
 スス暦では、太陰暦と太陽暦との間で875日目に端数が1となる。(理論的裏付け不明)ウツロヰにはこの隠れた一日(八七五カクロヒ)を守る役割を与え、宮の東北にある一本の大木のウツロ(空洞)をウツロヰの居社としなさい

 原文ではエトのすえ、875隠ろ日となっており、エトの末が暦の末を表していると思われます。訳文の太陰暦と太陽暦の差である事はこちらには読み取れないので、訳者の研究成果に問い合わせをするなど今後に対処を必要としています。
 こちらとしては遺跡に組み込まれている現実が、訳者の説明を明確にしている状況です。確認は後回しで八七五という数値のみに絞って証明出来る状況でした。
 続いて875日がエトの末になる部分を説明します。まず今の暦からの説明です。月の周期から一日ずれる状況を探します。

875/29.530589=29.6302928
29.53x29.63=874.973日
29.5 x29.63=874.085日

 今の暦で考えると月の周期を29.53日で考えるか29.5で考えるかで、約一日の差が出てきます。この差を何らかの方法で実際に調べる事が出来れば、暦の末に出来るでしょう。ハドソン湾極の計算をしてから比較の説明をします。

 ホツマツタエに組み込まれている875とは、ハドソン湾極時代の月の34周を有効数字3桁で計算した暦の数値でした。

ハドソン湾極時代の月の周期から計算する
25.723x34=874.582日 ;遺跡の示す確からしい数値の34周分です。
これに近い太陽日数は
2.43x360.071=874.973日
有効数字3桁で計算すると暦のずれが丁度1日になる。
25.7x34 =873.8日 月の34周
2.43x360=874.8日 月の34周に近い太陽年の日数
おまけ
324064/875=370.358・・ ;ハドソン湾極の暦の計測値を875で割ると370.4のグリーンランド海極時代の1年の長さに極めて近い。

 暦の計算方法、測定方法は以下の記事を参照下さい。

極移動の証拠を残す遺跡      11月9日
http://www.biblecode.jp/News_View.php?@DB_ID@=310

 ハドソン湾極時代の暦の計測状況を残していたサルミジェゲトゥサ・リージア遺跡の月の周期を計測するサークルでは、以下の組み合わせで月の周期を計測していました。
 月のサークルは11x9、8、7のストーンです。8+7=15=13+2とします。

13x2=26
11x9=99
26x99=2574日
99+1=100=25.723x100=2572.3日

 月の周期は100回の満月を数えて、26日で計算している月の周期の九九回分と比較することで、正確な値を求めていたと思われます。
 この計測方法があるので、ホツマツタエに出てくる34周は11x3+1となって現実的にも利用可能な数値です。恐らく彼らも33+33+34での運用をしていた事でしょう。
 月の34周は太陽暦の一年では2.43年になります。この端数を三桁までにすると一年360日になり875日目における誤差1日を表していることになるでしょう。

 ここで今の暦との比較をしておきます。今の暦ですと29.63周を数える必要があり、暦の計測としては難しいでしょう。0.63周は三日月の状況になると思われます。比較方法に工夫が必要で現実的ではありません。
 加えて数値の上では一日に近い差が29.53と29.5の間に生み出せるのですが、実際の月の軌道ではもう一つ大きな問題があって一日の計測が難しいのです。
 この理由は今の月の軌道が大きなふらつきを持つことの結果で生まれる満月の揺らぎです。満月は周期の中間点に決まっているのではなく、14日から17日までの4日間の揺らぎを持っています。875日目にこのどれかが来るとすれば四日分のずれを考慮して計測する必要があるのです。結果として今の月では875日の時点でのずれ量を計測する事は、精密な望遠鏡など現代の設備がなければ無理でしょう。
 歴史的にも現実的にも、今の月の周期と太陽の周期には235周19年の年月での対処をしてきています。これだけの時間をかけて月の揺らぎの状況を確認するのみならず、それだけの月と太陽のずれ量なのです。875日は間違っても今の暦では利用出来ないと思います。当時なら現実の月の周期の計測の1/3での評価ですので、難しい物ではなかったと思われます。

 ハドソン湾極時代の875日であるとすると続きの数値にも意味を調べる必要が出てきます。上記に紹介した過去記事におけるイナンナ定数につながる数値があるかも知れないからです。
 訳本をひっくり返して数値を探しました。語呂合わせなど言葉による部分は漏れるので見落としにも可能性がありますが、見つけられた気になる物は864のみでした。

ホツマツタエ地の巻、ホツマツタエ御機の二十 皇皇孫十種得るアヤ
伴人総勢八百六十四人での移動 ミコは八房の イテクルマ P82

 章の名に864が出てきますが本文にも含まれています。実際の所は864には既に気づいていたので残る2268関連を探していました。結果は見つけられなかったのですが、確認の為に875を用いた場合を計算した所で先史文明の人々の意図した物を知りました。
 ホツマツタエには875と864が意図的に組み込まれており、1年が360日だったとも述べています。ハドソン湾極時代の暦の数値であるなら、イナンナ定数ににも関連があるはずです。
 ハドソン湾極時代を表すイナンナ定数は、875と864を用いて以下の表現が可能でした。歳差運動の数値(8640x3=25920)と暦の計測値875の積であり、先史文明の人々は、こちらの作業でニネベ定数が暦の計測数値と歳差運動の数値の積であると理解する事を前提にして、この双方の数値をホツマツタエに組み込んでいました。

新しく見つかったホツマツタエの数式
195955200000000=86400x3x86400x8750
;86400 =24x60x60 一日の秒数
;8640x3=25920年 歳差運動の最速値の象徴値
;875は説明したエトの末の計測日数です。

参考 これまでに明らかに出来ていた数式
=22680000x86400=70x60^7 ;ニネベ定数として知られる数値
=25920x500x30240x500
=324000x40x30240x500 324000は暦の計測値
=900x64x189x360x100x500 900,64,360は暦の計測値
;900x64x189/360=30240 歳差運動の平均値の象徴値

 イナンナ定数は2268、864、1959552の三種類ともバビロンの遺跡に組み込まれています。バビロンにおいて重要な数値であり、ニネベで出土した粘土板にも書かれていた数値です。
 この数値の表現を変えた物がホツマツタエには含まれていたことになります。875は偶然ではなく暦の末という表現も付されています。864側にはこの表現はないのですが、864は現在も通用する一日24時間の秒数です。隠す事の意味も少ないでしょう。
 ホツマツタエは日本書紀や古事記とは異なり、さらに古い先史時代の書物でしょう。遺物でありハドソン湾極時代の情報を多く含んだ貴重な資料です。間違いなく漢語で書かれた日本書紀と古事記よりも正しいからこそ残されている物になると思います。
 こちらの仮説は既に書いてきていますが、白村江の敗戦以降中国の政権への敗戦に関連する外交文書としての歴史書がこれらの二書でしょう。日本を貶める内容であり、戦勝側を喜ばせる物になります。これが必要な理由は戦争における和平の為であり、歴史に例のある偽書の類いになります。

 ラムセス二世の時代エジプトとヒッタイトは平和条約を結んで休戦し、王はヒッタイト王女を王妃に迎えています。これは世界史で最初の平和条約と呼ばれる物になりますが、内容は双方が自分に都合の良いことを自国語で書いており、どちらが敗戦したのかが分からない程の内容です。
 こちらの解釈ではラムセス二世は愚王であり、アブシンベル神殿のオシリス像を自分に書き換えてこの神殿を作ったことにさえしているのです。神殿にはハトホル像も飾られていたはずですがこれを破壊することまでしているのです。こういった部分が政治的にも反感を呼んでその後の反乱を招き、エジプトを崩壊させて行っているのです。遺跡に名前が最も残っているのは、彼が歴史を改竄したからでしょう。人々はそれを快く思わなかったし、過去の政治体制を破壊したことにもなって当時の社会を崩壊させたのでしょう。
 この様に使われる文字を無条件に正しいと考えるのは非常に危険であり、歴史と政治的には嘘の文書のなど普通ですし、外交上では真逆を書く事さえもあるのです。この部分を無視して日本書紀と古事記を正しいと評価するのは、客観性を全くもって無視した愚かな議論でしょう。

 同様に日本書紀と古事記を見る時に分かる事は、現実の遺跡の状況を無視していることです。月のうさぎのモニュメントも、旭川古墳(仮称)も、日本一の仁徳天皇陵よりも大きいのです。にもかかわらずこれらは古墳とも遺跡ともされておらず、私たちは現実の遺跡の遺産を認められずにいるのです。
 遺跡に組み込まれた情報によれば、旭川古墳以西の破壊をもたらしたのは約5千年前の中国と平壌の連合軍になります。組み込まれて残されている情報は他の遺跡とも共通であり、先史文明の遺跡が認められる時に日本の遺跡の現状にも光が当たるでしょう。
 これまでホツマツタエが先史文明の遺物として、その情報の一部が遺跡に組み込まれて残されている事を証明出来ていませんでした。今回875と864という二種類の数値とその説明を見つけたことで、ホツマツタエも先史文明の遺物である事が明確になったと思います。旧約聖書と同様に先史文明時代の書物が今の私たちに向けて修正されて残された物でしょう。五七調を守って365日の暦に対応する部分を一部で書き加えた物だと思います。
 あと一点、追加の必要な部分があります。艮の金神様の関連です。

ウツロヰの大将君 ウツロ守 東北のひと木お 居社にせよ P107~108
 鳴る神の主である雷神ウツロイには、東北を守る役割を与えたので、その役名に対して「ウツロヰのオマサギミ(大将君)」という称号を与えよう
 この称号が「艮の金神」に変わって現代に至っています。

 艮の金神様は沖縄の神事の主催神の一人ですが、その正体はよく分かっていません。こちらの解釈でのヒンズー教のシバ神であると言う判断には今も変化はありませんが、ホツマツタエの中にその説明があったことをありがたく思います。
 説明には続きがあって様々に書かれています。こちらがここに書きたいことは、偽善の側である中国政権の嫌う艮の金神様を史書から消す必要もあって、875と合わせてホツマツタエ御機の二十一、ニハリ宮法定むアヤは日本書紀と古事記には載せられなかったのでしょう。他の宗教も艮の金神様を国常立神としているところもありますが、ホツマツタエに書かれていることを知っていれば異なる対応であったことでしょう。
 そして雷神ウツロヰは暦を守る隠れた任務を果たしているそうであり、ホツマツタエ御機の二十二によれば大地震などの自然災害を神通力を持って鎮めさせるとの事です。この手伝いを沖縄の神事は実際にしていると見る事も出来るでしょう。地殻変動の未来を穏やかな物に変えたいのは共通する願いかも知れません。古からのご協力ありがとうございます。

 ホツマツタエに書かれている12代までの天皇は、ハドソン湾極時代の人々だったのでしょうか。これには明確な答えがないのです。ホツマツタエは12代の景行天皇に献上された書物ですが、最後に景行天皇に献上するオオタタネコの奉呈文とヲヲカシマの賛助文が載せられています。彼らの年齢は234才と247才です。これらが正しければ、今の時代の寿命を大きく越えています。
 男であったアマテラス大御神は身長2.4mともされており、大げさな誇張と見る向きもあると思いますが、私たちはハドソン湾極時代の人の体型も寿命もまだ知らないのです。単純にはこの時代はまだハドソン湾極の時期であり、内容も当時の史書であり国民への教育向けの書ではなかったかと思えるのです。
 ハドソン湾極時代を思わせる遺跡も存在しており既に説明しているキトラ古墳の壁画です。星図は3万年前を考えると一致が見られるのであり、星の動きがそれを明確にしています。ホツマツタエに3万年前の暦の情報が存在していたことで、キトラ古墳の星図が3万年前の物である事にも現実味が増しました。イラストを再掲します。記事は以下です。

藤原京の教える日本の古代史2/2 12月17日追記
http://www.biblecode.jp/News_View.php?@DB_ID@=331

 私たちの過去と向きあうには、客観性を重視してこれまでの常識に囚われず、残されている遺物、遺跡に素直に向きあうことが重要でしょう。先史文明時代の日本の文字は中国から入って来た物ではなく、日本古来の文字が存在し行政では使われていたのでしょう。これがヲシテ文字であり、ホツマツタエを書いて残しているのです。
 こちらの準備している情報と共に、歴史の真実が広まることを願っています。ホツマツタエは見直すべき日本の価値とその歴史でもあるでしょう。

参考文献
甦る古代 日本の真実 千葉富三著
甦る古代 日本の誕生 千葉富三著

稲生雅之
イオン・アルゲイン